立教大学4年長嶋三塁手

<p>65歳を超えると、同窓会の案内が増える。現役を引退して、組織を外れると寂しくなって、気になるのは、昔の仲間のこと。振り返れば君がいて、というCMが昔はやったことがあったな。。先が見えてくると、後ろを振り返りたくなるのは人の性である。「貴君の上京の予定を聞いた。久し振りに仲間を集めておくから来てくれ」勤務する大学の野球部が神宮の全国大会に出場することを親しい高校の同級生に知らせたのが伝わったらしい。野球部長として、チームと帯同するのだ。当日、初戦敗退の傷心を抱えて、指定の居酒屋へ行くと、数名の白髪の老人が既に赤い顔で歓迎してくれた。暫く挨拶交わすうちに、何十年の空白を超えて、田舎の高校生の顔が浮かんでくる、という定番の表現がぴったりな光景である。飲み会は野球がらみの話題で始まり、近年の岐阜勢の不振ぶりを嘆く声から、昔はいかに強かったかという懐古談で盛り上がった。我々の母校は、甲子園常連校の県立岐阜商業と道路を挟んだ隣りの進学校で野球では弱小であったが、三年時には県岐阜商が春夏甲子園で決勝戦にまで進んで町中を沸かせたものだ。私も、高校を卒業後に宅浪していた折に,岐阜商のグランドに立教大の長嶋三塁手が学生コーチとしてきた日の話をすると、みんなが驚いて、「へー、そんなことがあったんや」と異口同音に言う。彼らは現役で大学に入学して上京していて、知らない話であった。「いや、当時まさに時の人だったから、かなり話題になったんだよ。そのすぐ後に、巨人入団を発表したから尚更だよ。」私は少々得意気に話したもんだ。「いや、私は当時から日記をつけていてね。あの日の感激はちゃんと書いているよ。」今でも続けていて、もう60年になる、と話すと「流石やね、大先生。お前が死んだ後にどこかに持ち込んだら意外に高く売れるかもね。奥さん孝行になるかもしれんな」と話は老後の家計へと転じて行った行った。東京から戻って、私は気になっていたので、物置に放り込んでおいた日記の山の中から必死で長嶋選手を見たあの日の日記を探し求めた。そこにはきっとあの感激が綴られているはずであった。あの青年の若々しい牡鹿のごとき敏捷な動き、一群の若者たちが発する明るさと精気、7月の土のグラウンドを覆う抜けるような青空。ところが、ないのである。ない、ない。何度も日記のページを行きつ戻りつしても、出てくるのは平凡な受験生の模擬試験の惨憺たる結果、それを嘆いて、懲りない反省と次は頑張るぞという愚かな決意。あれはどこへ行った。あれは、疲れた受験生の目に浮かんだ白昼夢だったのか。ネットで確かめる。間違いない。19577月に立教大学の選手たちが県岐阜商のコーチをしたという記録は確かにある。あの場に確かに、若い日の私もいたのに。60年の時を隔て今や残るのは老人のかすかな記憶のみ。「おかしいな、確かに感激して、日記に詳しく書いたはずだけどなア」しきりに嘆く私に妻の一撃「おかしいのは、あんたの記憶の方ね。無理もないわね。それだけ年を取ったのよ!」長嶋さん、確かにあの日、岐阜にいましたよね?・・・・・・・・