巨星との邂逅

大昔の話だが、大学受に失敗して一年浪人生活を送ったことがある。兄弟三人で、兄が二浪の末に東京の私立大学で、しかも、アルバイトがし難い理系の大学に入ったため、私には、厳しい条件が課せられていた.すなわち、経済的に余裕がないので、授業料の安い国公立大学で浪人期間は一年のみ。しかも、岐阜の大学浪人は、名古屋の予備校に通うのが定番であったが、やはり経済的な理由から自宅で勉強すること、いわゆる宅浪に限るというのだ。高校の教師であった父は、だらだらと名古屋の予備校に通ううち、遊びを覚えて、2浪3浪人巨星との邂逅と次第に意欲を亡くしていく例を沢山見てきた上での判断だったようだ。


   だが、始めてみると、宅浪は厳しかった。高校生の弟と両親が出掛けた後、まず玄関に鍵をかけて、夕方誰かが帰るまで己を家に閉じ込めたままの状態で、勉強に打ち込もうとした。]

だが、一月二月と家に閉じこもる日々が続くと疲れてくる。単調な日々に耐えかねてかねて、脱線が始まり、好きな小説を手にする時間が多くなる。家族との対話も次第に少なくなり、憑かれたように、模擬試験の結果しか話さなくなったのを見兼ねてて、母親が「少しペースを緩めたらどう。気休めに、野球の練習でも見にいってきたら」とタオルを投げ入れてくれたので気分転換に、夕方になると近くにある野球の名門県立岐阜商業高校のグラウンドへ練習を見に行くメニューを加えてみた。母校は進学校で野球部は弱かったが、私も半年前までは、弱小軍団の一員として、体を動かしていたのだ。大好きな野球を見ることは、唯一にして、大きなストレの解消になった。それで、毎日午後になるといそいそとグラウンドへ出かけた。   そんなある日。いつものように。グラウンドを取り囲む土手に集う常連のOBやファンの親父たちの間に腰を下ろして、練習を見る。変だ。何だかいつもと様子が違うのだ。


   いつものヤジもなく、妙に静かだ。みんな黙ってグラウンドに目を凝らしている。   グラウンドに見慣れぬ姿がある。逞しい若者だ。抜群の動き。鮮やかなフットワーク。強靭なばね。只者ではない。誰だ? 隣の親父に聞く。「あの長嶋よ。立教の!。知っとるやろ?」。モチロン!勿論知ってるっさ。東京六大学本塁打記録を塗り替えようとしている今旬の大選手だ。テレビが普及する以前だったが、その活躍は、連日紙面に躍っていた。「にいちゃん、どや、すごいやろ!」おやじは我が子の如く自慢する。   高校生たちと一緒に動き、教え、弾んでいた。大声で指示し、励まし、払い、ふざけて肩を叩く。白昼のグラウンドなのに大学生の周りにだけスポットライトが当たっていた。   これが、かの話題の長嶋選手なのだ。実物のの長嶋茂雄選手なのだ。すごい!都会には、すごい人がいる。遠い東京の空を想った。胸に熱いもが沸き上がった。よし、俺もやるぞ。先に光を見た思いがした。   翌春、私は父が設定したハンディを乗り越えて、国立大学に潜り込み、都会へ出た。  


   五月,すでに長嶋茂雄は国民的スターであった。満員の甲子園野外野席から遠望する   背中の背番号3に向かって心中で叫んでいた。「何とか受かったよ!ありがとう。」


   余談ながら、あの1957年の7月、県岐商グラウンドの熱気の中で、長嶋コーチに鍛えられ、激励され、プロ入りを勧められて、後の名二塁手高木守道選手が誕生している。当時まだ一年生部員。痩せて細いバンビの如き少年であった。40年後。名高い「10・8決戦」で、ともに監督として相まみえる。日本野球史上の知られたエピソードの発端の目撃者となり得たのは、私の秘かな自慢である。