蛍雪時代、上八、ビルマ語とタイ語、

 今日のように情報がが溢れていなかった1950年代から1970年代まで受験情報の一番手は、

旺文社が出している蛍雪時代という受験生向けの雑誌であった。この月刊誌で、各大学の

入試問題傾向を知り、対策を練るというのが当時の受験生の定番であった。また、見事

受験戦線を合格で駆け抜けた先輩諸氏の体験談から、大学の案内にいたる受験生必須の記事が

溢れていた。特に私のように自宅で勉強を続けている人間にとっては、暗闇に伸びる一筋の

灯台の光線のごとく、ありがたい命綱であった。また、旺文社が提供するラジオの受験講座は、

私のように地方で学ぶ者にとっては、将来接するだろう大学の講義をほうふつとさせるレベルで、

孤独な受験生を励まし、安心させた。英語のジェームス・スミス、古文の塩田良平先生の名調子は

今も記憶にある。


  さて、受かってみると、現実の外大がどんなか、想像できない。

今のように視覚情報はなかったし、試験会場は分散した近隣の高校であったから、大学キャンパス

は見ていない。大阪外大の試験は、国立二期だったから、発表は4月に入ってからであり、下宿を借りて

その他用意万端、授業に出るまでに時間が極めて短い。慌てふためき、なんとか、間に合わせて、上八の大学本部での

入学式に出てみると、なんだこれは、質素な学舎、田舎の中学みたい。時は、戦後の復興期、旧軍の兵舎など

に間借りしていた時代から、やっと一か所に統合されたばかりとかで、木造の教室の薄い壁を通して、

異国語の発音練習とインドネシア語とがぶつかってハモったり。


隣の教室は、特に小造りな蒙古語であった。

偉大なる先輩司馬遼太郎氏を生んだ生んだ伝統語科だが、当時は定員も減り弱小軍団に見えた。

インドネシア語科は20人弱。東南アジアでの活躍を目指し、全国各地から大阪に集結した精鋭という思い込みとは

裏腹に、ほとんどが関西出身。これには少しがっかりとした。しかし、長い受験勉強から解放され初めての

都会生活に舞い上がっていた私には、質素でな小さな学舎に10数語学科が混在する専門学校風での学生生活も

新しい外国語を学ぶ物珍しさに幻惑されて、それなりに刺激的であり、さほどの不満は感じなかった。だが、外からの

冷静な目で見れば、国立大学としての予算規模で全国で下から二位という小さな空間の中で、単調な語学の勉強に

明け暮れるキャンパスライフは、「予備校と同じじゃないか。お気の毒に」と言われそうなものであった。


そもそも彩がない。女子学生の姿は、英仏独などの西欧語学科には、一定数見られたが、インドネシア語科を筆頭とする

東南アジア語科群には、麗し乙女の姿はほとんどなかった。「西欧語の東京外大、アジア語の大阪外大」と日ごろ自負しているアジア

語の連中も、女性に人気がないという事実はあまり触れられたくない弱みでもあった。現在では、この事情はは全く一変している。

女性の社会進出への、というより、女子の大学進学率の向上とともに、語学に強い女子の特性も相まって、アジア語科にも女性の

比率が軒並み高くなって、今では男性との比率が殆どの学科で逆転している。

 私は卒業後30年経ってから、母校で非常勤講師とし教えた経験があるが、あまりにも状況が変わって、華やいだ女子学生の群れに大いに戸惑い、同時に当時の現役の学生諸君に大いなる

羨望の念を抱いたものである。大阪外大のトイレ近くにになんと「痴漢に注意!」という張り紙があるのいを見て、大いに驚いた。我々の時代が痴漢などとは結び付きようもない黒一色のむさくるしい雰囲気がいつのまにか、若々しく華やかな桜の園に変っていたのである。生まれるのが少し早すぎたと諦めるほかなかった。私の入学時のクラスは20名弱の学生中、女子は一名。まさに紅一点の世界であった。


毎年秋の文化祭では各語科がそれぞれの専攻語で演じる語劇の出し物で競い合う行事があったが、女性役の人材が足りず、近隣の女子短期大学へ援軍を頼みに行き、三拝九拝して参加してもらい、短期間でセリフを丸覚えさせて、なんとか事なきを得るのが常であった。


20余りの語科が集まって構成する外国語大学は、ただ外国語を学ぶという一点だけが共通であっても、それ以外は、専攻語を使用する地域、国家によって、状況は変わり、その結果、卒業後の進路もまた変わってくる。そして、就職後の生活も、同様にさまざまである。

つまり、行先は別でも一緒の電車に乗り込んだ乗客のようであった。あるタイ語科の先輩に話を聞いたことがある。本当は、ビルマ語を志望して入試の手続きに訪れところ、「今年はビルマ語の予定はない。タイ語と隔年募集で、来年まで待つか。今年。タイ語で受けるかのどっちかだ」といわれて、「それなら。タイ語にしとくなはれ。浪人するよりはましでっしゃろ!」ということなったそうである。彼は卒業後に、タイの名門大学に留学し、戦後間もない復興期の日本で数少ないタイ語の専門家として活躍したのであるから、人生は分からない。彼は私の義兄にあたる。奥さんが私の妻の長姉で、長女の婿がタイ語というけったいな言葉の専門家であることに驚いていたら、今度は三女の旦那がまたインドネシア語ということで、なんということかと呆れたことは想像に難くない。