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今日の千字文ー(2)アキラの生涯
卒業式の翌日、アキラと約束通り、長良川球場でプロ野球のオープン戦を見に行った。
昨日も寒かったが、今日も、春は名のみの曇り空で、風邪も冷たかった。おまけに、コンクリート
むき出しのスタンドはじっと座り続けるには辛かった。本当なら、本当のプロ野球を目にできるという
滅多にないチャンスに大興奮の筈だが、なかなか試合に集中できなかった。アキラは明日大阪へ発つのだ。
男ばかり3人兄弟の農家の次男で、中学を出たら、親戚の紹介で大阪のメリヤス問屋で働くことが決まっていた。
私の方は,既に高校入学が決まっていて呑気な夏休み中であったが、アキラにすれば、故郷での最後の日である、
大切な時間なんだ、と私の方が緊張していた。農家の次男坊の定めとして、義務教育を終えれれば、働きに出る
ことは子供のころから、親に言われ続けて、本人も得心しているのだろう。アキラは特に変わった様子もなく、
大阪へ行けば、プロ野球の試合を見る機会も増えるだろうとむしろ楽しげに話していた。岐阜市の郊外にできた
新興住宅団地に引っ越してきた小学校で、アキラと仲良くなった。目がくりくりとしたひときわ小柄な少年で、
戦後まだもののない頃のこととて、胸に二本の白線がはいったセーターを真夏以外は、常に身に着けていた記憶がある。
勉強は得意ではなかったが、何事にも積極的で、がんばるアキラに一目を置いていた。「お前たちは。上の学校へ行って、
いい会社に入るんだろう。おれは、頑張って店を持つんだ」こんな年でもう、将来のことを考えているんだ。私には、
こののどんぐりのような少年が大きく見えた。試合が終わって、「アキさん、がんばれよ」と言うと、珍しくまじめな顔で
「いろいろありがとうな」少し照れながら、「お世話になりました、もんな!」だから、私も少し気取って
握手をして別れたような気がする。普段は、彼のことをアキさんと呼んでいた。
50年後、春まだき頃、外から戻ると。家内が「アキさんの奥さんから電話があったわよ」と告げた。
瞬間、「しまった!」私は異変を直感した。もっと早く連絡を取るべきであった。大きな過ちを犯した後悔の念が走った。
。きっと不幸がおきたのだ。悪い予感は当たった。66歳の人生であった。
その通夜の席に家内と出席して、少し驚いた。一介のメリヤス下着屋の通夜にしては、出席者の数がかなり多かったからである。
ほとんどが、同業者というか業界関係者のようであった。周りに耳を澄ませていると、親族の通夜とは違った気軽さで出席者
達が話す声が聞こえてくる。「ちょっとまだ早かったな。娘が三人か」「なんとか3人を片付けるまでは頑張るって言っていたんだけどな」「ま、アキさんはしっかり貯めていたから、奥さんも心配なかろう」「大丈夫だよ。貯める一方で、遊びは一切しなかったからな」
「何が楽しみであれだけ働けたんかなあ?」「先代の親方が、アキさんだけは、一人で金を持たせて、出張に出しても心配なかったと、よく俺たちに言ってたもんな。」「そりゃ、あんたらやったら、直ぐ女か博打にに入れあげて、すっからかんだよな」とアキさんがいかに真面目というより、遊びに対して臆病で、身持ちが固かったかを、褒めるのか、揶揄うのかわからないような話が続いたが、彼が謹厳実直、仕事一筋で少年の日の夢を全うし続けたことは間違いないようであったので、私は安心した。男兄弟の多い、昭和の農家。義務教育を終えたら奉公にでる。真面目に働いて店を持つ。そして、家族を守り、親孝行に励む。そんな幼い日の目標を着実に実行して、人生を終える。
少し早いが充実した人生であったと思いたい。中年になって、お互いに人生の行く先が見えるようになってからは、ときどき会
って、飲めない酒に付き合ってもらうことがあった。そんな折、一度だけ、酔いに任せて顔を赤らめながら、打ち明けてくれた話を
思い出した。アキさんも勿論若い頃には、それなりに遊びたいと思ったことがあるという。毎年何か月もかけて担当の地域を営業で回るのであるから、勿論お馴染みもできる、決まった宿を使うから顔見知りの女中も増える。だから、女性からのアピールも少なからずからずあったという。勤勉な仕事振りを見て、旦那にふさわしいと思った女性がいてもむしろ当然であろう。ところがある時、得意先に誘われて
九州の温泉場に行った時、断り切れずに、一緒にお風呂場へ行ったのだという。勿論、富士山の絵のある浴場ではない方である。彼にとってははじめての経験であった。で、どうだった? いやー、あれは夢のような体験だったなあ。この世にこんな楽しいことがるなんて。相方は女神だったな。「でもな。恐ろしかった!」えっ、恐ろしい、どういうこと?「こんなん知ってしまったら、何としてでも、また行きたくなるに決まっていると思ってな」販売と集金を兼ねての出張途中で、もしそっちへ足が向いたら、すべてを投げうっても行くようになる、そうなったら、これまでの苦労がすべて泡になだから、それからは、何があってもそういう場所に近付くのを避けた。そして出張から戻ってきてすぐ嫁をもらった。相手は誰でもよかった。風呂場へ行かないでも済むように、それだけが目的であったという。「嫁には申し訳ないが、それが本心さ。でも、ちゃんと我慢した俺も偉かっただろ」偉い、えらい、アキさんは偉かった! よう頑張った!嫁さんもね。葬儀会場を覆う春寒の夜気の中でアキさんが生涯で、ひそやかに人生の快楽と秘密を経験し得たことをもい出して、私は心が和むのを感じた。蛇足だが、卒業式の翌日に、一緒に見に行ったプロ野球のチーム一員に、高校卒業したばかりの、水戸商業出身の遊撃手、
豊田泰光がいた。後年中西太選手とともに黄金期の西鉄を担って日本球界を揺るがす活躍を見せるのだが、当時はまだ背が高いだけののっぽの少年であった。今からざっと70年前の話である。
私の千字文(1)ー朝風エッセイ
限られた字数内でエッセイなどまとまった文章wo書ヲ挙げるのは容易ではない。字数に気を取られすぎると文章が固
くなり、往々にして面白味に欠ける場合が多い。産経新聞の一面に、「朝風エッセ-」という読者から募った作品を
掲載する欄がある。姿勢の庶民の生活の哀歓を綴った佳作も多く、愛読して、時には投稿したりして楽しんでいる。
ところが実際に、文章を書いてみると、なかなか手強い。字数は最初650字であったのが、最近は500字以内
に縮小された。わずか150字程度の削減だが、書き手にとってみれば。これは意外と大きな変化であることに気が付く。
以前なら、一つの核になるテーマとそれにまつわる枝葉を書き加える余裕があった。文章にゆとりがあったが、いまはその
ゆとりを与える遊びがない。勿論それは、筆者の文章表現の力によるものだろうが、凡なる書き手には、大きな足枷となる。
650字の時には、其れでも自分なりに満足のゆく作品が書けたり、まれにだが、本紙に採用されたこともあったが、
500字体制になってからは、納得したものが書けて投稿しようと思い至ることもほとんどなくなった。自己判断での
基準に達することができなくなったのである。これは想像だが、この150の制限字数の変化で、書きにくくなった人は
少なくないように思える。しかし最初から的を絞った的確な表現ができる文章巧者にとってみれば、むしろ腕の見せ所ではないか。
話は少し離れるが、中国に千字文というものがある。南宋の武帝が同時代の文章家として有名であった周興嗣に命じて作らせた
1,000字より成る漢詩である。子供に漢字を教える手本として、また、書を学ぶ上の手本として用いられたが、すべて
異なる文字が用いられ時には、番号としても利用された。この1,000字という限定の中で、しかも同じ字を使わずに思いの丈を
歌い上げるというのは、もとより異才のみにしてできる技であるが、この凡筆もせめて同じ1,000字で思うところを記する
というささやかな修練だけは何とか続けるよう心掛けたいと思う。これで、約900字。果たして何事か伝えることができたのか。
はたまた、凡庸なる御託を並べたというか、要するに単なる独りよがりの戯言か。とにかくスタートの書き出しであることには間違いない。
文字
蛍雪時代、上八、ビルマ語とタイ語、
今日のように情報がが溢れていなかった1950年代から1970年代まで受験情報の一番手は、
旺文社が出している蛍雪時代という受験生向けの雑誌であった。この月刊誌で、各大学の
入試問題傾向を知り、対策を練るというのが当時の受験生の定番であった。また、見事
受験戦線を合格で駆け抜けた先輩諸氏の体験談から、大学の案内にいたる受験生必須の記事が
溢れていた。特に私のように自宅で勉強を続けている人間にとっては、暗闇に伸びる一筋の
灯台の光線のごとく、ありがたい命綱であった。また、旺文社が提供するラジオの受験講座は、
私のように地方で学ぶ者にとっては、将来接するだろう大学の講義をほうふつとさせるレベルで、
孤独な受験生を励まし、安心させた。英語のジェームス・スミス、古文の塩田良平先生の名調子は
今も記憶にある。
さて、受かってみると、現実の外大がどんなか、想像できない。
今のように視覚情報はなかったし、試験会場は分散した近隣の高校であったから、大学キャンパス
は見ていない。大阪外大の試験は、国立二期だったから、発表は4月に入ってからであり、下宿を借りて
その他用意万端、授業に出るまでに時間が極めて短い。慌てふためき、なんとか、間に合わせて、上八の大学本部での
入学式に出てみると、なんだこれは、質素な学舎、田舎の中学みたい。時は、戦後の復興期、旧軍の兵舎など
に間借りしていた時代から、やっと一か所に統合されたばかりとかで、木造の教室の薄い壁を通して、
異国語の発音練習とインドネシア語とがぶつかってハモったり。
隣の教室は、特に小造りな蒙古語であった。
偉大なる先輩司馬遼太郎氏を生んだ生んだ伝統語科だが、当時は定員も減り弱小軍団に見えた。
インドネシア語科は20人弱。東南アジアでの活躍を目指し、全国各地から大阪に集結した精鋭という思い込みとは
裏腹に、ほとんどが関西出身。これには少しがっかりとした。しかし、長い受験勉強から解放され初めての
都会生活に舞い上がっていた私には、質素でな小さな学舎に10数語学科が混在する専門学校風での学生生活も
新しい外国語を学ぶ物珍しさに幻惑されて、それなりに刺激的であり、さほどの不満は感じなかった。だが、外からの
冷静な目で見れば、国立大学としての予算規模で全国で下から二位という小さな空間の中で、単調な語学の勉強に
明け暮れるキャンパスライフは、「予備校と同じじゃないか。お気の毒に」と言われそうなものであった。
そもそも彩がない。女子学生の姿は、英仏独などの西欧語学科には、一定数見られたが、インドネシア語科を筆頭とする
東南アジア語科群には、麗し乙女の姿はほとんどなかった。「西欧語の東京外大、アジア語の大阪外大」と日ごろ自負しているアジア
語の連中も、女性に人気がないという事実はあまり触れられたくない弱みでもあった。現在では、この事情はは全く一変している。
女性の社会進出への、というより、女子の大学進学率の向上とともに、語学に強い女子の特性も相まって、アジア語科にも女性の
比率が軒並み高くなって、今では男性との比率が殆どの学科で逆転している。
私は卒業後30年経ってから、母校で非常勤講師とし教えた経験があるが、あまりにも状況が変わって、華やいだ女子学生の群れに大いに戸惑い、同時に当時の現役の学生諸君に大いなる
羨望の念を抱いたものである。大阪外大のトイレ近くにになんと「痴漢に注意!」という張り紙があるのいを見て、大いに驚いた。我々の時代が痴漢などとは結び付きようもない黒一色のむさくるしい雰囲気がいつのまにか、若々しく華やかな桜の園に変っていたのである。生まれるのが少し早すぎたと諦めるほかなかった。私の入学時のクラスは20名弱の学生中、女子は一名。まさに紅一点の世界であった。
毎年秋の文化祭では各語科がそれぞれの専攻語で演じる語劇の出し物で競い合う行事があったが、女性役の人材が足りず、近隣の女子短期大学へ援軍を頼みに行き、三拝九拝して参加してもらい、短期間でセリフを丸覚えさせて、なんとか事なきを得るのが常であった。
20余りの語科が集まって構成する外国語大学は、ただ外国語を学ぶという一点だけが共通であっても、それ以外は、専攻語を使用する地域、国家によって、状況は変わり、その結果、卒業後の進路もまた変わってくる。そして、就職後の生活も、同様にさまざまである。
つまり、行先は別でも一緒の電車に乗り込んだ乗客のようであった。あるタイ語科の先輩に話を聞いたことがある。本当は、ビルマ語を志望して入試の手続きに訪れところ、「今年はビルマ語の予定はない。タイ語と隔年募集で、来年まで待つか。今年。タイ語で受けるかのどっちかだ」といわれて、「それなら。タイ語にしとくなはれ。浪人するよりはましでっしゃろ!」ということなったそうである。彼は卒業後に、タイの名門大学に留学し、戦後間もない復興期の日本で数少ないタイ語の専門家として活躍したのであるから、人生は分からない。彼は私の義兄にあたる。奥さんが私の妻の長姉で、長女の婿がタイ語というけったいな言葉の専門家であることに驚いていたら、今度は三女の旦那がまたインドネシア語ということで、なんということかと呆れたことは想像に難くない。
遥かなるインドネシア
巨星との邂逅
大昔の話だが、大学受に失敗して一年浪人生活を送ったことがある。兄弟三人で、兄が二浪の末に東京の私立大学で、しかも、アルバイトがし難い理系の大学に入ったため、私には、厳しい条件が課せられていた.すなわち、経済的に余裕がないので、授業料の安い国公立大学で浪人期間は一年のみ。しかも、岐阜の大学浪人は、名古屋の予備校に通うのが定番であったが、やはり経済的な理由から自宅で勉強すること、いわゆる宅浪に限るというのだ。高校の教師であった父は、だらだらと名古屋の予備校に通ううち、遊びを覚えて、2浪3浪人巨星との邂逅と次第に意欲を亡くしていく例を沢山見てきた上での判断だったようだ。
だが、始めてみると、宅浪は厳しかった。高校生の弟と両親が出掛けた後、まず玄関に鍵をかけて、夕方誰かが帰るまで己を家に閉じ込めたままの状態で、勉強に打ち込もうとした。]
だが、一月二月と家に閉じこもる日々が続くと疲れてくる。単調な日々に耐えかねてかねて、脱線が始まり、好きな小説を手にする時間が多くなる。家族との対話も次第に少なくなり、憑かれたように、模擬試験の結果しか話さなくなったのを見兼ねてて、母親が「少しペースを緩めたらどう。気休めに、野球の練習でも見にいってきたら」とタオルを投げ入れてくれたので気分転換に、夕方になると近くにある野球の名門県立岐阜商業高校のグラウンドへ練習を見に行くメニューを加えてみた。母校は進学校で野球部は弱かったが、私も半年前までは、弱小軍団の一員として、体を動かしていたのだ。大好きな野球を見ることは、唯一にして、大きなストレの解消になった。それで、毎日午後になるといそいそとグラウンドへ出かけた。 そんなある日。いつものように。グラウンドを取り囲む土手に集う常連のOBやファンの親父たちの間に腰を下ろして、練習を見る。変だ。何だかいつもと様子が違うのだ。
いつものヤジもなく、妙に静かだ。みんな黙ってグラウンドに目を凝らしている。 グラウンドに見慣れぬ姿がある。逞しい若者だ。抜群の動き。鮮やかなフットワーク。強靭なばね。只者ではない。誰だ? 隣の親父に聞く。「あの長嶋よ。立教の!。知っとるやろ?」。モチロン!勿論知ってるっさ。東京六大学の本塁打記録を塗り替えようとしている今旬の大選手だ。テレビが普及する以前だったが、その活躍は、連日紙面に躍っていた。「にいちゃん、どや、すごいやろ!」おやじは我が子の如く自慢する。 高校生たちと一緒に動き、教え、弾んでいた。大声で指示し、励まし、払い、ふざけて肩を叩く。白昼のグラウンドなのに大学生の周りにだけスポットライトが当たっていた。 これが、かの話題の長嶋選手なのだ。実物のの長嶋茂雄選手なのだ。すごい!都会には、すごい人がいる。遠い東京の空を想った。胸に熱いもが沸き上がった。よし、俺もやるぞ。先に光を見た思いがした。 翌春、私は父が設定したハンディを乗り越えて、国立大学に潜り込み、都会へ出た。
五月,すでに長嶋茂雄は国民的スターであった。満員の甲子園野外野席から遠望する 背中の背番号3に向かって心中で叫んでいた。「何とか受かったよ!ありがとう。」
余談ながら、あの1957年の7月、県岐商グラウンドの熱気の中で、長嶋コーチに鍛えられ、激励され、プロ入りを勧められて、後の名二塁手高木守道選手が誕生している。当時まだ一年生部員。痩せて細いバンビの如き少年であった。40年後。名高い「10・8決戦」で、ともに監督として相まみえる。日本野球史上の知られたエピソードの発端の目撃者となり得たのは、私の秘かな自慢である。